Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
ワウ

 1942年のほとんどを通じ、ニューギニア南東部における戦闘は、カンガ・フォースが行ったラエとサラモアに駐留する日本の海軍部隊に対するゲリラ戦のみに限定されていた。それらの基地は、定期的に連合軍の航空機による空襲を受けていた。そして1943年初頭、パプアでの戦いが終わりに近づくにつれ、日豪両軍共に、ワウにあるオーストラリア軍基地こそが次の重要な戦場になると認めるに至っていた。

 日本軍は、ワウ攻略こそがゲリラ撲滅につながり、またおそらくはオーエン・スタンレー山脈を越える再度の進撃につながると考えていた。1943年1月、安達二十三陸軍中将はこの作戦を督戦するため、第十八軍司令部をラエに置いた。安達中将指揮下の第二十及び第四十一師団は、ウェワク-マダンの海岸線にあってウェワクにある兵站基地を守備していたので、中将は第五十一師団に対してワウ攻略の任務を付与した。

 岡部通陸軍少将率いる歩兵第百二連隊は、この攻撃の先導を務めるつもりであった。連隊は1月上旬にラバウルを進発したが、第三大隊が輸送艦上で敵の航空攻撃を受け、損害を出していた。揚陸時、岡部少将の手にはまだ、野戦砲兵第十四連隊、工兵第五十一連隊、輜重兵第五十一連隊、高射砲、臼砲、信号弾、衛生及び労務分遣隊と共に、無傷の二個歩兵大隊が残されていた。彼はまた、ココダ街道で敗退した第百四十四連隊からの増援を受けていた。この部隊は岡部支隊として知られていた。

 安達中将と岡部少将はこの作戦の成功を確信していたが、カンガ・フォースのゲリラ兵の大胆さには懸念を抱いていた。オーストラリア軍自体はムボにまで押し返されたにもかかわらず、少なくとも百六十六名の日本海軍陸戦隊員が一連の衝突で戦死しており、カンガ・フォースのゲリラがブイサバル街道(Buisaval Track)上での進撃を遅滞させ、長距離偵察隊を派遣して日本軍の兵站線を攻撃しているのは明白であった。そこで彼ら司令官たちは、引き続きオーストラリア軍を圧迫し続けながら、この地の施政権がオーストラリアに委任される以前に、ドイツ人探検家と宣教師らが使っていた街道を経由して部隊の大半を前線に送る事を決定した。オーストラリア軍は、草木が生い茂ったままになっていたこの街道の存在を認知していなかった。岡部は、この事が敵に察知されずに配下の部隊を前進させ、敵に対する奇襲を敢行し得る機会をもたらすと考えていた。


 この街道(その後、オーストラリア兵にはジャップ街道《Jap Track》と呼ばれた)はブイサバル街道よりも険しいものであり、偵察隊と工兵は草木の生い茂った区域では、小道を切り開いて行かねばならなかった。この事は部隊の前進にかなりの遅れをもたらしたが、それは岡部とその幕僚が目的地に到達するために将兵が本来必要とする時間とエネルギーを低く見ていたという意味からも、危機的なものであった。将兵らは全行程を進軍するに耐えられるだけの十分な糧食を支給されていなかった。労務要員とニューギニア人らが補給物資を運搬したが、それらの荷のほとんどは弾薬であった。もうひとつの問題は、岡部の指揮下にある砲兵隊員が山砲を急勾配上や狭い道で扱えなかった事であり、従って歩兵は砲撃支援なしで攻撃を実施しなければならなかった事である。

 オーストラリア人の指揮するニューギニア・フォースは、すでにワウにある守備隊に対する増援を計画していた。トーマス・ブレーミー少将は、ラエとサラモアに対する進撃に際し、ポートモレスビーから兵員を空輸する事ができるこの基地を確保する事は極めて重要だと考えていた。少将は同時に、ワウに向けてより多くの兵員を移動させ、その彼らに再補給するため、オーエン・スタンレー山脈を越える道路の建設を計画していた。

 ブレーミー少将はこの作戦には参加させていない第17旅団を別に確保していた。そうする事で、この旅団を機動性のある増援予備部隊として使えるからである。ブナをめぐる戦いの終結で、同旅団をワウに空輸するためのダグラスC-47輸送機の使用が可能となったが、ワウ・ブロロ峡谷は一時的な悪天候に見舞われていた。雲が突然何時間もの間飛行場を覆い、それは何日間にもわたって峡谷をも包み込んだ。悪天候がC-47編隊を基地に舞い戻らせたせいで、結果的に最初の大隊の空輸に一週間を要する事となった(一機につき三十名が搭乗)。それにもかかわらず、1943年1月19日までにワウにおける第2/6大隊は、二十八名の将校と五百三十五名の将兵を擁するまでになった。

 カンガ・フォースはムボ周辺における、増大する日本軍の活動を監視していたが、ワウがその脅威に晒されている事には気付いていなかった。カンガ・フォースの新しい指揮官となった第17旅団のマレー・モーテン准将は、第2/6大隊をムボ付近の戦線に増援として送り、村を再占領した。斥候隊は1月24日、新たに使用されていた『ジャップ街道』上での敵の動きを報告したが、オーストラリア側はこの街道上を敵の連隊全てが進撃しているという事は知らなかった。その後1月28日、別の斥候隊が『数百の』日本兵がワウに接近中、と報告してきた。岡部は、自らの企図する奇襲の要素を、達成させていたのである。

 モーテン准将は、基地内に僅かな数の将兵しか保持しておらず、日本軍を止めるために第2/6大隊を後退させるには既に時期が遅すぎた。彼は中隊を差し向け、側面に入った日本軍と交戦させたが、これらの対応は失敗に終わった。ワウとその飛行場の防衛は、ポートモレスビーからの増援の緊急空輸にかかっていた。

 オーストラリア軍が直面した大きな問題は悪天候であった。1月28日には、雲が覆う前に基地に到達できたのは僅かに輸送機四機に過ぎなかった。岡部支隊はこの飛行場から2マイル以内にまで接近していた。支隊の将兵らは海岸線から歩き続けてきたせいで疲労し、腹を空かせていたが、彼らはワウの物資貯蔵所を奪取する事を楽しみにしていた。基地内にいた多くのオーストラリア兵は、基地が本当に陥落するのではないかと考え、その予防策としていくらかの補給物資や小屋を破壊した。

1月29日朝、覆っていた雲が晴れ、C-47輸送機は第2/5及び第2/7大隊の八百十四名を空輸した。日本軍はその夜になって攻撃を実施したが、飛行場の奪取には失敗した。翌朝、C-47輸送機はより多くの歩兵と25ポンド野戦砲、及び第2/1野戦連隊の砲手を空輸し、砲兵隊は再び立て直され、正午までに戦闘に参加した。オーストラリア側の火力は、日本軍部隊を攻撃するためにポートモレスビーから飛来したオーストラリア空軍第30飛行戦隊所属のビューファイター戦闘爆撃機によって強まった。翌日までに、岡部支隊は撤退に追いやられる事になった。

岡部支隊はひどい状態にあった。同支隊は千名を越える戦闘による死傷者を出し、数百名以上が病に罹っていた。ウィラウェイ戦術偵察機が日本軍の動きを予想し、その後衛部隊を攻撃するための斥候や火砲、迫撃砲や航空機を有効に機能させた。これによって、日本軍のニューギニアにおける最後の攻勢は幕を閉じたのである。

基地を守り通したオーストラリア軍は、同基地の開発を増大させた。工兵がさらに別の臨時滑走路をブロロに建設し、建物や道路、橋梁などを補修した。戦闘中は数が少なかったニューギニア人も、雇用を受けるために戻って来るようになった。他の者が労務者として基地周辺で作業に従事するか、または軍やニューギニア地元民に新鮮な作物を供給するために畑を耕す一方で、多くの者が、その存在なくしてはオーストラリア軍の反撃は行き詰ったであろう軍用運搬人として働いた。日本軍の爆撃機が基地を数回にわたって空襲したが、対空砲火やアメリカ軍の戦闘機が、基地への損害を抑制した。ラエ、サラモアに対する反撃攻勢を支援する基地はこうして確保されたのであった。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)


Printed on 05/18/2024 10:17:36 AM